2014年06月29日
前回の記事の続きとなりますが、アメリカ合衆国が日本に直説的な武力行使ではなく交渉によって開国を迫ったのは興味深い事実です。
というのも、日本にペリーが初めて訪れた1853年から、わずか約50年後にアメリカ合衆国はプエルトリコやフィリピンを領有しているからです。
約半世紀の間に、アメリカ合衆国はアジアに軍事的に進出できるほどに、太平洋地域における力を確立していったと考えられます。
合衆国がどのように太平洋地域に進出していったのか。
この問いには、当時の環太平洋地域における国際関係に目を向けることが重要かもしれません。
一つは前回で紹介したように、イギリス帝国との関係がキーポイントになりそうです。
もう一つは、ハワイとの関係が良い着眼点になるかもしれません。
19世紀前半にアメリカ合衆国から宣教師の一団が連続的にハワイを訪問して、現地に滞在しています。
彼らの目的はハワイにキリスト教による福音と文明をもたらすことであったとされています。
宣教師の一部はハワイの王侯や首長に取り入り、影から一定の政治的地位を確立します。
そうして徐々にハワイでアメリカ人の足場を得ることが、合衆国の太平洋進出の足がかりになっていったのかもしれません。
このトピックはおもしろそうなので、もう少し勉強してみます。
ひすとりえ
2014年06月23日
下田開国博物館には吉田松陰の展示があります。
来年の大河ドラマは「花燃ゆ」、
松陰の妹のドラマです。
博物館でじっくり見て深めて頂けると良いですね。
お待ちしています。 みたびでした。
2014年06月22日
ペリーの黒船といえば蒸気船の音を轟かせながら大砲を構える威圧的な軍艦というイメージがあります。
ペリーの日本に対する外交を「砲丸外交」として捉える歴史家は少なからずおり、実際にペリーと黒船という軍艦の組み合わせはその印象を裏付けます。
ところが、当時の合衆国大統領であるフィルモアがペリーに当てた指令書には、日本に対する戦争権の否認と、自衛以外の発砲権の禁止が挙げられていたそうです。
ペリーは武力行使を禁じられながらも、合衆国の代表として日本に侮られてはならない、という微妙な立場に立っていました。
実のところ、当時の太平洋における合衆国の立場自体が微妙だったとする研究もあります。
合衆国は、日本とアメリカが戦争状態に陥れば、イギリスが中立の立場を取り、香港などの補給地を失うという認識をもっていました。
当時の合衆国は、太平洋における補給地のほとんどをイギリスの領地に依存していたそうです。
太平洋においては新参者の合衆国にとって、補給地の不足は否応なく実際的な政策を取らざるをえないものであり、日本に対する威圧的な態度も、政治的なパフォーマンスという意味合いが強かったものと考えられます。
西洋の強国がアジアの小国を開国するといった直線的な歴史よりは、事態はなかなかに複雑なものであるようです。
ひすとりえ