1854年12月4日=嘉永7年10月15日
166年前の12月4日、ロシア使節プチャーチンがディアナ号で下田へ来航しました。目的は北方の国境画定と日本との通商の協議のためです。この年の1月長崎で日本側大目付格筒井政憲、勘定奉行川路聖謨と交渉したのですが打ち切りとなり、下田で同じメンバーで交渉を再開しました。交渉の末1855年2月7日下田の長楽寺で日露和親条約を結びました。千島列島エトロフ島 以南が日本、ウルップ島以北がロシア、樺太は共同使用。下田、箱館、長崎の開港等々を決めまし。
当時国境は戦争の結果で決まるのが普通でしたが、日本とロシアは話し合いで決め、これは世界史上特記すべきことです。
なお、2月7日は「北方領土の日」ですが、この日露和親条約締結を記念したものです。