黒船来航により、日本で一番最初に港が開かれた街、下田の記念博物館

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常設展

下田太鼓祭

風待港かぜまちみなと として栄えた下田の生い立ちを紹介し、下田の発展に深く関わる下田太鼓祭たいこまつりを再現しています。江戸時代前半の約100年間に海の関所が下田に置かれていたため、江戸へ出入りするすべての廻船かいせんは下田に寄港しなければなりませんでした。幕末に下田が日本最初の開港場となった理由の一つは、海の関所があり、港が整備されていたことが挙げられます。

開港前夜の伊豆と下田・吉田松陰航海のくわだて

幕末に伊豆半島の海防を担った韮山にらやま代官だいかん江川太郎左衛門えがわたろうざえもんと世界遺産・韮山反射炉はんしゃろの関係、さらにはペリーを追って下田を訪れた幕末の思想家・吉田松陰の下田における足跡そくせきを紹介します。もともと下田に建設予定であった反射炉の韮山移転には、黒船来航と深い関わりがありました。そして、下田の黒船来航と深い関わりがある人物が吉田松陰です。当館では、密航に失敗した吉田松陰が繋がれた下田の平滑の獄を再現しております。

ペリーの来航と下田

豊富な遺品や資料で、ペリー来航の目的や黒船、開港場となった下田の役割などを明らかにします。1853年、浦賀沖に来航したペリーは、翌年再び日本を訪れ、江戸幕府との間で日米和親条約を結びます。その結果、下田は日本初の開港場となり、開国後の日本における外国人との交流の先駆けとなりました。

ロシアからの黒船

日本とロシアの交流は、下田からはじまります。他に類を見ない多くの遺品と資料で、日本とロシアの交流の歴史を明らかにします。1854年、ペリー艦隊が下田を去ってから4ヶ月後に下田を訪れたプチャーチンを、安政の大地震が襲いました。プチャーチンらのディアナ号は沈没してしまいますが、伊豆の人々と協力して建造した日本初の洋式船「ヘダ号」にて無事帰国し、まさに日露交流のはじまりといえるでしょう。

アメリカ初代総領事ハリス

ハリスの遺品と彼に関する資料を紐解き、日米修好通商条約を結び日本開国に導いたハリスの役割や、領事館での生活を展示しています。1856年に秘書のヒュースケンを連れて下田に来日したハリスの日本における主な任務は、幕府との間で通商(自由貿易)を結ぶことでした。条約締結までを下田で過ごしたハリスの生活からは、地元の少年らを従者にしたり、体調を崩して牛乳を求めたりと、あまり知られていない一面も垣間見えます。

幕末郷土ゆかりの人物

幕末の下田生まれ、下田育ちで有名な人物が2人います。一人は「日本写真術の開祖」下岡蓮杖です。蓮杖は、外国人の教えや独自の探求により写真術を習得すると、横浜で日本人初の商業写真館を開いた下田生まれの人物です。もう一人は、看護人の名目でアメリカ初代総領事のハリスに仕えた「唐人お吉」です。日本開国の歴史の裏で、17歳の少女が偉人の妾となって人生の歯車を狂わされ、はかなく散った「唐人お吉」の物語はあまりにも有名です。当館では、彼らの遺品などを用いてその人生と当時の下田に光を当てます。