1855年7月14日=安政2年6月1日
1854年12月、ロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号は下田港に停泊中、安政の大津波により大破し、修理のため西伊豆の戸田(現沼津市戸田)に回航途中富士沖で沈没してしまいました。ディアナ号の約500名のロシア将兵は助けられ戸田に滞在し、ディアナ号の代船として建造された「ヘダ号」やアメリカ商船をチャーターし、3回に別け帰国の途につきました。
1回目は1854年4月11日米船カロラインフート号で159名が、2回目は5月8日、戸田で建造された「ヘダ号」でプチャーチン以下48名が、そして168年前の7月14日は第3次としてロシア将兵278名が商船船グレタ号で帰国の途につきました。 しかし出航後、オホーツク海で敵対関係にあったイギリス軍艦に拿捕され、ロシア将兵は捕虜となり、ロシアに帰ったのはイギリスとの講和が成立した後、翌年3ロシアでした。なお、この船で元掛川藩士の橘耕齋(たちばなこうさい)がロシアへ密出国しています。
1853年7月8日=嘉永6年6月3日
幕末、鎖国の日本に開国を迫るためアメリカは日本にペリー提督を派遣したことはよく知られていますが、ペリーが4隻の黒船で浦賀へ来航したのは170年前の7月8日でした。旗艦(ペリーの乗艦)は蒸気船サスケハナ号で他の3隻は、蒸気船ミシシッピー号、帆船プリマス号、帆船サラトガ号でした。
ペリーは幕府に開国を求める大統領の国書の受理を迫り、幕府は拒絶する事の困難を感じ、やむを得ず翌日国書を受け取り、1年後に回答することを約束しました。
1859年7月7日=安政6年6月8日
1856年8月初代アメリカ総領事として下田に着任したタウンゼント・ハリスは、下田奉行や幕府高官と交渉の結果1858年7月29日米修好通商条約を結びを結び公使に昇任しました。
通商条約締結という大任を果たしたハリスは翌年3月長崎・上海・香港方面の旅行に出、6月には下田の領事館を閉じ江戸に向かいました。そして164年前の7月7日、江戸麻布の善福寺を公使館としました。