黒船来航により、日本で一番最初に港が開かれた街、下田の記念博物館

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179年前の1月29日、167年前の1月29日

179年前の1月29日、167年前の1月29日

1843年1月29日=天保13年12月29日
享保6年(1721)幕府の海の関所である下田御番所の浦賀移転に伴い、江戸初期から約100年間続いた下田奉行所は14代奉行で終わりました。しかし18世紀になると外国船が度々姿を見せるようになり、幕府は下田港の入り口にお台場を造るなど海防に目を向け、179年前の1月29日下田奉行を再配置し、浦賀奉行小笠原加賀守が下田奉行に任じられました。しかし幕府の財政難などにより、弘化元年(1845)廃止されました。
次に再び下田に奉行所が配置されるのは日米和親条約により下田が開港された嘉永7年(1854)です。

1855年1月29日=安政1年12月12日
167年前の1月29日、フランスの捕鯨船ナポレオン号が日本人漂流民4名を送還のため下田に入港しました。しかしフランスとはまだ和親条約を結んでいないため、居合わせた米艦ポーハタン号に移し、そこから日本に帰還させるという処置をとりました。
なお、ナポレオン号はロシア将兵が下田に滞在していることを知り、早々に出港しましたがその経過は次の通りです。
ロシア使節プチャーチンはこの2ケ月ほど前下田に来航しましたが、安政の大津波で乗艦ディアナ号を失い、戸田村(現沼津市戸田)で代わりの船を建造中でしたが、下田に日本人漂流民を送還のためフランスの捕鯨船ナポレオン号が入港していることを知り、滞在中の戸田村から将兵80人を率い下田に急行しナポレオン号の奪取を企て、下田に1月31日着きました。しかしナポレオン号はロシア将兵が滞在していることを知り、漂流民を渡し出港した後でした。(ロシアと英仏はクリミア戦争で敵対中)